父は反日のために中国共産党に銃殺され、娘は無実を主張したが32年間成果がなかった
【大紀元2019年10月31日報道】(大紀元記者顧暁華の取材報道)王明珠は、今年73歳でシカゴに住んでおり、彼女の半生は父の無実を晴らすために奔走している。

父の王爽斎は国民党の抗日志士で、当時の日本軍の欠席死刑判決を避け、日中戦争が終わった後、中共の魔手から逃れることができず、「反革命分子」として銃殺された。

父は十何歳の時に抗日を開始し、死を免れた

王爽斎(おうそうさい、1911年6月26日-)は、遼寧省鉄嶺県出身の軍人。1927年に張学良が創設した学生隊で訓練を受けた。1931年の満州事変後、師の石堅(字は墨堂)の紹介で国民党に加入し、抗日救国戦争に身を投じ、地下工作者となった。

教師、実業家、易者を装い、仏教徒として布教活動を行い、日本軍の情報収集のため鞍山昭和製鋼所(鞍山)、大連飛行機製作所、瀋陽造兵所などで働いた。国民党東北調査室幹事、国民党東北党務弁事処通信員、秘書を歴任した。

王爽斎は抗日のためにしょっちゅうよそを回っていたが、彼はとっくに日本軍のブラックリストに載っていて、「通集犯」になっていた。

王明珠によると、1941年12月30日、日本軍は裏切り者の一人の売り渡しにより、この日国民党の抗日志士を逮捕した。

王爽斎は当時、他の2人と同じ部隊に所属していた。他の2人はこの日も逃げられず、1人は生き埋めにされ、もう1人は首を吊って殺された。

その日、ずっと外で地下工作をしていた王爽斎は、お産を控えた妻に会い、日本軍が村を包囲していることを知らなかった。漢奸は王爽斎が村に入ったことを日本軍に知らせた。

日本軍は道路に慣れていなかったので、村で村人を一人捕まえて尋問した。その村人は彼らが王爽斎を捕らえに来たことを知っていたので、わざと日本軍を騙し、村を囲んでいる道を一周して時間を稼ぎこっそり小道から猛スピードで王爽斎の家に知らせを送った。
王爽斎の父は、家族が離れないことを決め、王爽斎を逃がす。王爽斎の弟は強引に彼を部屋の窓から突き放し、一家で王爽斎の命を救った

日本軍が王爽斎の家に着くと、父は息子は買い物に出かけ、すぐに戻ってくると言って時間を引き延ばして逃げさせた。日本軍は結局だまされたと分かり,父を木につるして鞭でひどく殴った。王爽斎の母も東北三九日の雪の中で日本軍に両腕の十本の指を打たれた。彼の弟は唐辛子の水を飲まされ、兄は雪の中に埋められた。王爽斎の妻は妊娠しており、同情され、暴力を振るわれることはなかった。
家族は夜まで苦しめられ、父親は鉄嶺の日本軍憲兵隊に連行されて拘禁された。

日本の憲兵隊の中で、父は裸にされて四方の風の通りの部屋に閉じ込められていた。父は石を抱えて部屋の中を駆けていた。この部屋で父は十七日間閉じ込められたまま、結局息子の行方は明かされず、日本軍は仕方なく父を釈放した。

王爽斎は日本軍の逮捕を逃れた唯一の人物で、天津移り、名前を変えて再び妻と子供をもうけた。

1942年初め、王爽斎は錦州偽高級法院(日本の裁判所)から欠席死刑を宣告され、偽満州国逮捕の重要犯となった。1943年に身分が再び暴露され、北京に逃亡して抗日活動に参加した。

王爽斎は日本軍の銃口を逃れたが、中共の銃口の下に倒れた

1945年8月15日に日本が降伏すると、同年10月に天津に戻り、天津実業銀行(国民党の銀行)の秘書となった。

このとき、師の石堅から東北(満州)への任官を勧められたが、断った。王明珠によると、当時父は長年にわたって親に恵まれていないと感じていた
彼の願いは、家族に平穏で幸せな生活を送ることだった。そのため、彼は採用を拒否し、天津実業銀行で1年間秘書として働いた後、ビジネスに身を置くことを決め、親戚と協力して貿易会社を設立し、中米貿易活動を行った。

その後、国共内戦の間、彼の多くの戦友や教師は台湾に渡った。彼は大陸に残り、家族と普通の生活を送ることを決心したが、その選択は彼の人生に終止符を打った。

1950年後半、王爽斎は中国共産党創立初期の殺人運動である反革命鎮圧運動で逮捕された、当時の身分は天津元昌貿易股份有限公司総経理であった。

1951年3月31日午前、天津小王荘刑場で銃殺刑に処された。王明珠によると、当時、父親と一緒に銃殺されたのは193人(冤魂193人)で、中には女性が銃殺された後、次の大きな穴に突き落とされた人もいたという。

王明珠は次のように述べた。父が処刑された時、彼女の弟はまだ生まれて19日しかたっていなかった。母、叔父などは刑場に行って死体を収容した。父の両手は後ろで縛られていた。

王爽斎が処刑された後、家の不働産3か所は中国共産党に没収され、家族が受けた差別やいじめは形容できない。

王爽斎の父と弟は天津から故郷に返された。父は文化大革命の時、紅衛兵の残酷な迫害を受けた。紅衛兵は彼の目にヨードを吹きかけた。父は痛みにまみれてのたうち回った。

嬢は32年間父親の無念を晴らすために行動したが成果なし

1987年2月24日、王明珠は姉と一緒に天津中級法院に行き、叔父が執筆した最初の訴状を提出した。彼らは8人の保証人と15人の証言者を見つけ、完全な証拠を形成し、元の判決文の中のすべてのでたらめな言葉を覆した。

1988年2月24日、家族は天津中級法院の申し立てを却下し、原審を維持する通知を受けた。

その後、王明珠は2016年までに計7回の訴状を書き、天津から北京まで次々と訪問し、中国共産党の最高裁判所に上告した。また、温家宝、胡錦濤、習近平、周永康、賈慶林、賀国強、李源潮、王勝俊、天津の張高麗、天津の肖懐遠などに訴えの書類を13部送ったが、すべて断られた

王明珠は2007年にアメリカのシカゴに移民した、長年の間、父の復讐のために中国を行き来してきた彼ら兄弟姉妹は8人だったが、今は4人しか残っていない。

王明珠氏は記者に対し、「彼女は今、時間がある時、シカゴの中共大使館に行き、中共国旗を踏んで、『天滅共匪、暴政を終結する』という横断幕を持って、人々に中共の殺人の歴史を暴露している」と語った。

また、動画を録画して、すべての人に中国共産党の歴史を歪曲させ、黒白を逆手に取り、暴力、専制、嘘を利用して、民衆を迫害するようにネットワークをアップするつもりであり、悪質な中国共産党は必ず滅びると語った。(大紀元
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引用:PTT
1.名も無き台湾人
悔しさを晴らすために32年、気力はすさまじい

2.名も無き台湾人
ここでは虫国支ナチス賤畜国のニュースを報じることは禁止されていない

 ↑3.名も無き台湾人
 感心した
 国際ニュースで見るのは無理だね


4.名も無き台湾人
中国で冤罪を訴えるのは無理だろう


5.名も無き台湾人
香港で今起こっている、中共は中国で未来はない

6.名も無き台湾人
国民党反革命分子の末路がこれだ
自分で反革命だと言えば,反革命だ,反革命だと言えば銃殺されるのも当然だ


7.名も無き台湾人
支共は恥知らずである

8.名も無き台湾人
国民党に入党して抗日運動に参加したのか、まあ以前の国民党だけど

9.名も無き台湾人
スパイになった者に良い結末は訪れない

10.名も無き台湾人
中国人は結局台湾に逃げ込み、反共から新共に変わるんだ

11.名も無き台湾人
記事を見る限り抗日のために殺されたのではなく、反革命の罪だろう、哀れな一家である

12.名も無き台湾人
中国国内であなたを助けてくれる人はいないだろう、他人を頼るな

13.名も無き台湾人
一人の普通の人を闘死させるのは根本的に中共の日常である

14.名も無き台湾人
戦争時代の悲劇はこの人だけではない

15.名も無き台湾人
漢奸共産党なら意外ではない

16.名も無き台湾人
彼は国民党の人に思える
処刑されるのはそんなに珍しいか??

17.名も無き台湾人
中共の暴政は滅亡する

18.名も無き台湾人
抗日英雄は国民党に随従して台湾に来た後に殺された者も少なくない

19.名も無き台湾人
中国は建国後、国民党と関係のある人を清算している

20.名も無き台湾人
一方現在の国民党は親中になった…